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江口康三画伯が残した文書を以下に転記しますが、一部文字が読み取れない部分があり原文と異なる場合がある旨、ご了承ください。
瞽女(ごぜ)に思う
瞽女は村から村へと三味線を弾き、祭文松坂を歌い閉ざされた山国の寒村に、娯楽をもちこんだ ”盲目の女旅芸人” のことである。彼女達は、かたくなに身を守り、日陰者と世間様に言われても、力いっぱい親子のように助け合いながら生きた家族でもあった。
高田(越後)東本町町はずれに住んだ ”越後瞽女" 杉本キクエ親方さん(57年死亡)も、預かった盲目の娘達を立派に育てられた人情の厚い人であった。私も生前お会いしたが、それは几帳面な方で心優しい思いやりのあった人で、お話をお聞きするうちに、その純粋な人柄に心打たれてしまった。貧しい当時のこと世間からは、疎んじられ厳しい掟の中に生きて行かねばならなかった彼女達の冷たいやるせない思いや、義理人情に縛られ、離れ瞽女おりん、のように実家からも見捨てられても慕う男を追いながら不幸な一生をおくった、哀れな瞽女もまたいたのである。瞽女にはどんな山間僻地にも必ず常宿があった、彼女達は、それを瞽女宿と呼んでいた。きれいな旅籠でなく、その殆どは農家であった。もともと民族学を勉強した訳でもなく、また 市川信夫氏(高田瞽女研究家)のような立派な人でもない、名もない画家の私が深い人の心に打たれて、一度は瞽女の姿を描いて見たかった。直江津(現上越市)から海ぞいに谷浜、名立を通って、浦本村梶屋敷(糸魚川)に出るには13里(52Km)の長い海添への道を歩かねばならなかった。
冬の日本海は、荒れ狂い白波が狭い道をさらう、曲がった道は、泥るんで引く波を待ち歩かねばならないような悪路であった。娘のおはつは、梶屋敷の在に生まれた器量好しの瞽女で、幼い頃、ある熱病で目を失ってしまった。(作品二人目)誰よりも可愛がってくれた母の病に、ただ会いたがって居ることを聞いたキクエ親方さんが、不憫に思い厳しい冬の旅を、承知の上で梶屋敷に連れていったのである。”おはつ”は長女であったが、父親は漁に出たまま帰らぬ人になり、姉妹大勢をかかえた母は漁の手伝いや、田畑の手伝いをしながら、貧困な一家を支えた。無理がたたったのだろうか、不運に病に倒れ ”おはつ” が幼い妹達を背負って行かねばならなかった。先立つ母親はどんなに ”おはつ” を不憫に思ったことであろう。一目会いたさに心急ぐ ”おはつ” の旅姿は美しくも、また可憐であったと思う。雪と海風、その寒さに耐えながら歩き続けた瞽女!闘魂のような強い意志と勇気、そして明るい希望と自信に満ちたような瞽女!越後人の心であろうか ”おはつ” はまた芸も人並み以上に優れ声も美しかったという。何処へ行っても旅先の客に可愛がれ場銭も多く貰い、そのお金を妹達に与えたという。ハイカラな髪を綺麗に結って、他の瞽女さん達の羨望の的であったと聞く。 (私の創作である)
1998年埼玉県知事受賞作品 江口康三
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